目  次

和歌山での技術支援事始め ―――――――――――― 1
釣り雑文 ―――――――――――――――――――― 2
水は誰のものか ――――――――――――――――― 6



和歌山での技術支援事始め


小泉 誠  

「和歌山市内における強震動アレ−観測」において、観測機器の保守およびデータ収集・整理の技術支援依頼を受諾していた技官グループのうち、2名の技官と依頼教官は2月初旬、折しも冬型気圧配置の強まったころ官用車で和歌山へ向かった。
 正式名称を東京大学地震研究所地震地殻変動観測センター和歌山地震観測所という少々長ったらしい呼び名になっている、通称、震研和歌山観測所を観測ネットワークの基点として合計7つの強震動観測点を初めて訪ね、データの交換方法と観測システムのチェックを学んだ。ここでの強震動観測は和歌山市周辺に起こる有感地震のデータ取得が狙いである。震源は震研和歌山観測所の地震観測ネットワークで正確に求められるので、震源の性質、伝播経路や地盤の特性が評価できるというものである。
 微小地震観測とは異なり少々ノイズの高いところでも観測は可能だ。SNを上げるために山麓の比較的静かな場所に地震計は設置してあるが、住宅が山まで迫っていて地図を頼りに目的地を目指すが、道が細く複雑である。地図を見ていると時間はいくらあっても足りない。むしろ設置場所は車を運転し身体で覚えることが重要だ。今回は地元のかかりつけの電機屋さんの案内で簡単に行けたが、次回は相当迷いそうな予感がする。カーナビは役立つが辺鄙なところの道は載ってないのだ。
 地震観測データはICカードに記録される。現場でカードを新しいのと取替え宇治へ帰ってからパソコンに取り込み、データベースを作るところまでが最低限必要な支援業務である。記録装置一式が大きなプラスティックケースに入れられ鍵をかけて屋外に置かれている。商用電源が必要なので水道局や学校などの公共施設のお世話になっている。また震研和歌山観測所にはすべての面で絶大なお世話になっている。

次回(3月中旬)は、杉政・松尾両技官にお願いします。 


TOP

釣り雑文

市川 信夫 
 空港からバスで一時間余りでJR西鹿児島駅前に着いたのだが、どこが駅なのかと戸惑うほどに駅舎は変貌していた。かっての焼き芋の臭いがただよい、バタバタした感じのなかにも、ようやく着いた旅人を何かほっとした気持ちにさせてくれた、木造の駅舎はそこにはなかった。JR九州のレッドのシンボルカラーで染まった二階建てのビルが、跨線橋よろしく本線をまたいで建っていた。
 駅の正面は、あの京都駅の階段広場のミニチュア版とでも思える様な屋根のない階段が、正面巾の2/3程を占めて二階部分につながっていた。本来の出入口は残りの1/3で、屋根のある階段とエスカレータが二階に導かれていた。最近の駅は、「よろず屋」が何の苦労もなく大儲けをしてビルをオッ建て、さらに儲けようと企んでいるような、駅らしくない駅が多くなってしまったようだ。自分の気のせいかあるいは昔への郷愁かもしれないが、駅然としない駅には、人で賑わっていても、冷たさを感じさせるものがある。
 それはさておき、昼過ぎに着いたとあってまずは腹ごしらえをと、興味がてらに駅舎内でとることにした。当然ながら二階は土産物屋やら食堂などが整然と並んでいた。歩けば床板がギシギシと音をたてた、昔あったような食堂などあろうはずもなかった。雑踏の音すらも違って聞こえた。ただ、昔の「ザ××ラーメン」のお店は新駅となってもあったが、瀟洒な店構えとなっていて、味までも変った様な気がして入るのをためらった。隣の店で飯をかき込み早々に切り上げたが、この店もほっとするような気持ちは何も与えてくれなかった。オジンの私には落ちつきが悪かった。

 今回ここへ来た目的は、土曜、日曜を利用しての、いつもの三人組での釣りのためではない。たまには一人で好きなことをして遊ぶのもよかろうと、彼等にも内緒で、ひそかにあの「開聞岳」への山行をもくろんだまでである。ホントカナ?
 とにかく、午後四時近くに西鹿児島駅を発車する指宿枕崎線の列車に間に合うように、市内で店を探して携帯用のガスカートリッジを買わねばならない。飛行機には携帯用と云えどガスの類を載せてくれない。明日、開聞岳の頂上で、これで飯を作りコーヒーを入れようとの魂胆である。時間を気にしながら二軒のスポーツ店を廻って探したが、しかし自分が所持するガス器具に合うガスカートリッジはなかった。はてさて最初からつまずいてしまった。仕方がないので小型の固形燃料を購入してしのぐことにした。お湯ぐらいなら充分沸かせるはずである。昼用の食料はコンビニのおにぎりとパンで間に合わせることにして、あっさりと計画を変更した。優柔不断、内股の膏薬がオジンの特権でもある。

 帰宅途中の中高生で賑わう指宿枕崎線の山川行きの鈍行に乗る。山川駅で枕崎行きの鈍行に乗り換えれば五駅目が開聞駅である。日本最南端の駅「西大山」を過ぎて三番目の駅でもある。南に噴煙をたなびかせる「桜島」を左手にして、錦江湾沿いに気動車はゆるゆると走った。車窓より見える畑は薯畑が多い。何せここ薩摩半島は日本のサツマイモの発祥の地である。だが薯畑の薯のほとんどは皮の白い薯のようだ。焼酎の原料である。今は収穫期だ。小型トラックがネット袋に詰めたこの薯を満載にして畑中を走っているのを、しばしば見ることができた。ましてやこれを焼酎が走っていると思うと、今宵の食事がたまらなく恋しい私であった。山川駅で連絡していた枕崎行きの気動車に乗り換え、暮れかかった開聞駅には17:30頃に着いた。気動車から降りたのは私と高校生が数人であった。駅は開聞岳のほんの麓の、駅特有のいかついフェンスも何もない、雑木に抱かれた小さな無人駅であった。しかし駅裏には秀麗な開聞岳をどっかと従えている素敵な駅でもあった。

 予約していた宿はすぐに見つかった。駅近くで行き合った人が聞きもしないのに「ばーさんがあそこで待っている」と教えてくれた。「ばーさん」とは今でも現役の宿の人であった。前もってこの列車で着く旨を伝へていたので、たぶん、宿の前を通りかかったこの人に言づけたのであろう。私の山行きの格好を見ればすぐにも判っただろうが、親切な人達である。
 沢山の猫と宿を切り盛りする三人のばーさん達に迎えられた今宵のお宿。白いモルタル二階建てで、多くの潅木に囲まれた民家風の家が今宵のお宿でもある。昭和三〇年頃からの宿だと云うからうれしくなってしまう。つけ加えれば、もう今では民宿でもこのようなのはあるやなしかと思えるような宿でもある。
 襖一枚を隔てて、あるいは廊下を挟んで、隣室となる。そんな部屋が上下あわせて4〜5室ある。それでも満室である。予約の電話を入れた時、「都会の人にはどうも・・・」と、しきりに近くにある国民宿舎をすすめてくれたのだが、(今となってはその恐縮した気持ちがよくわかるが)あにはからんや私にはその夜の宿はここしかなかった。  通された四畳半の部屋で夕食となる。お風呂は遠慮した。宿の人達の心のこもったてんこ盛りの家庭料理を肴に、さっそく"生"で焼酎を頂く。独りモンとは云え、人が心を込めて作った料理はそれとなく判り、見映えが悪くても旨く味わえるものだ。給仕のため、あい間に部屋へ上がって来たばーさんの一人の話によれば、何年か前に某TV局の連中が開聞岳登山の教育番組作成のため、ある有名人を連れてここに何日か泊まったとのことである。このばーさん、その有名人の事を昨日の事のように興奮気味にひとしきり喋って、明日の参考にと、その時の登山を記事にした本までも置いていった。が、今度は隣の部屋で同じ事を私の事までも含めて喋っていた。賑やかである。親切である。筒抜けである。
 どなた様が泊まろうが登ろうが勝手だったが、"生"の焼酎は本当に体に良く効いた。食事を終える間もなく、あえなくダウンとなった。その夜の記憶はそこで途絶えている。おかげで私には、賑やかさからは解放された幸せな夜だったようだ。
 朝餉を作る物音で起こされた。快晴である。逆光だが黒いシルエットの開聞岳が綺麗である。午前七時前の早々の朝食をすませ、ばーさん達と猫達の見送りを受けて宿を出た。この宿には悪い印象は一つもなかったが、不思議な宿だった。どうして男手としての宿の人が一人もいなかったのだろうか。なぜああもオジンで満室なのだろうか。あとでこの話を聞いた同僚で山好きの某氏も二十歳の頃にこの宿に泊まったとのこと。その時の彼が持った宿の印象は、非常にそして激的に、ヨカッタらしい。何が良かったのかは聞けなかったが、今でも鮮明に覚えている様子だった。昭和三〇年頃からのお宿でばーさん達三人も当時から宿の人。今では歳は見たところ60〜70歳代だが、しかし彼女達にも若い頃はあったはずだ。そして昨晩泊まっていたオジン達にも。ウーム・・・、下衆の勘ぐり、考えるのをやめよう。来るのが遅かった。

 宿からは、枕崎線の踏切を渡り、開聞岳をめがけてまっすぐ東に延びているゆるやかな坂の車道をぶらぶら歩けば、30分足らずで草スキー場の上部にあたる二合目の登山口に着く。車道はここから上には延びていない。道の傍らにある家々の庭や草木を眺めながら歩くのは楽しいものだ。こと知らない土地になると、そこに住む人々の暮らしまでもかいま見られて、なかなか興味は尽きないものでもある。これはやはり下衆のやることなのかな?。
 二合目の登山口からはいきなり鬱蒼とした樹林帯を歩くことになる。この山の登山道は山そのもを螺旋状に右にひとまわりして頂上に至っている。他の山々のそれと違っておもしろい道なりである。またこの山は別名「薩摩富士」とも呼ばれ、富士山を小型にしたような山である。そして谷らしい谷のない、標高922mのトロコニーデ型の活火山でもある。登山道はひたすら上に向かう。したがって、上に向かって進めば登山道の左側には、終始錦江湾や東シナ海の海が望めるはずだったが、密に生えた木々に邪魔をされて五合目近くまで、海を少しも見ることはできなかった。また開聞岳は深田久弥の書き記した「日本百名山」の内の一つとあって、全国からの登山者が多いためか、登山道はよく整備されていて迷うような所は一ヶ所もなかった。
 七合目辺りでようやく大きく眺望が開け、屋久島方面の南の海が眺められるようになった。また登山道はこのあたりから大きな岩の岩場の道となり少々歩きづらくなった。九合目辺りとなるところ、枕崎市や開聞町が見えるところで、ほぼ山体を螺旋状に右にひとまわりしたことになる。ここから頂上までは直登となるが、その距離はあまりなく直ぐにも着いてしまった。

 火口縁に、周りの木々より一箇所突き出して岩場となっているところが頂上であった。二合目の登山口からゆっくり歩いて二時間で着いた。頂上からは空気が澄んでいれば南に屋久島が見えるとのことだったが、桜島の火山灰のせいか、あるいは海からの水蒸気のためか、快晴にもかかわらず春霞の中にいるようで見ることはできなかった。東に佐多岬がようやく視認できたくらいであった。

 火口は強い風のため、"低木であることを強いられているふう"の常緑樹でみっしりと覆われた樹林帯となっていた。樹冠の連なりから想像すれば、火口底は非常に浅いように思えた。固燃で念願のコーヒーを入れ、春を思わせるような日和のなかで、のんびりと昼過ぎまでその360度の展望を楽しんだ。かって何度か屋久島へ船で渡る時、錦江湾の出口に巨大な灯台のように、いつもその姿をこれみよがしにしていた山にひかれ、いつかは登ろうと思っていた山にとうとう登ってしまった。満足であった。

 下山には、二合目の登山口まで一時間とかからなかった。町へ下り、開聞駅近くにある、私には全く縁のない、縁結びの神様をまつる歴史の古い「枚聞」(ひらきき)神社へ立ち寄って時間つぶしをしてみたが、午後三時過ぎには宿へ入ってしまった。今宵のお宿は昨夜の宿と同じ開聞町にある国民宿舎である。
宿には温泉があり、部屋が錦江湾に面しているのがうれしい。部屋は前もって確保していた。
 ところでどうでもよい事だが、開聞町は「本土最南端の町」だと唱っているが、沖縄県も出来ている現在、本土とはどこまでを云うのだろう? また枚聞神社の「ひらきき」の読みだが「開聞」も訓読みではそのように読める。開聞の「開」は「枚」の字を「開」にしたのだろうか。そうならばどうしてなのだろう。昔の人は今の人よりも、もっと洒落っ気があった?。解答が欲しいところである。

 宿の露天風呂から眺める開聞岳の夕暮れにはすばらしいものがある。太陽が山の左肩下に沈み行く時には、思わず「お日さん明日もたのんまっせ」と云いたくなるほどの力があった。余裕があれば、明日からの事さえなければ、もう一泊と思うのは私の勝手か。ぬるめが気持ちのよい風呂の中で、缶ビールを友に、暗くなるまで開聞岳のシルエットを眺めながらつかの間の極楽を味わい、私のひそかな山行は終了した。

−連絡−

ジャンボ友の会の皆様へ
 「機内食はクラブ料理」をウリにして、順調に飛行を続けたジャンボは次の目的地に無事着陸しました。現在、簡易点検を兼ねて機体整備中です。
点検整備が長引けば定期航路への再就航は当分ないとのことでしたが、定期、不定期にかかわらず、また飛行が出来る様になりましたら、皆様にご連絡いたしますとのことでした。

1999.02.16               
ボウサイケンキュウショ・ギジュツシツ  
イチカワノブオ               

TOP

水は誰のものか

水資源研究センター 永 田 敏 治 
「空気と水」
 私たちにとっては「空気と水」は、無いようであり、有るようでない.有って当たり前、無くては困るもので、その存在感を少しも認識することなく接してきたのである.日常生活においては、空気はそこにあるという意識はなく、さもあたり前で有り難さを感じることはない.まさに「空気のような」存在感の薄い物質である.ところが近い将来多くの人間が宇宙に永住できる宇宙開発においては、その空間では極めて存在の大きさを感じる.それは、人類にとって最も必要な一方の生命線でもある.
水はといいますと固体、液体、気体と3つの姿で、この地上にたくさん存在している.人間社会では、飲む、食す、洗う、つかる、消火、運ぶ、水田水、氷と言ったいろいろな利用、手助けをする.個々の利用をあげると、水は口やのど、目を潤し、色に染まり、固有の形がなく、水は方円の器に随うのである.また冷凍保存となることで医療にも貢献する.
 ところで地球上の生物にとって「空気と水」はなくてはならない物であるが、実はそう考えるべきではなく、この地上に「澄んだ空気と清い水」が豊富にあったから、その環境に機能する生物が生まれてきたのである.
 今の地球の水環境問題の下においては、人間が自然の摂理を無視した行いの農薬等を散布、酸性雨による伏水流(地下水)への汚染、さらに井戸水は飲めなくなったり、都市化が滞留水を遮断するために水が枯れたりしている.また水田の多いことが日本の独特の風土や気候を作ってきたことは間違いないのである.ところが、山間部や都市周辺の水田はどんどん宅地化されていく、さらに山の木や森林を伐採して、企業(国)が打算的な総合開発を促進して、自然環境を破壊してまでも営利だけを求めているように思われる、このように好き勝手なことをしていると、取り返しがつかない報いを受ける日は遠からずである.
 この地球上に住む人類として、同じ地上の人間であっても価値観が違い、考え方の物差しが違う人々がいる.この問題を話し合うには地球の未来をみつめられることが不可欠である.豊かさか環境かの論争はさておき、ことは緊急を要する問題なのである.
 「水は天からの貰い水」であることは心許ないことであるが、太陽が存在する限り水は大丈夫である、ところが水は無限のように思われるが、「清い水」は有限(水の流れと人の行方)であるとの認識を人類は理解すべきで、水は誰のものでもない万人のためにある.

「地球上の水」
 水の惑星と呼ばれている地球上には、水は至るところに存在している.そこで暮らす人類の食生活においては、人間は食物なしでは5週間、水なしでは5日間しか生きられない.我々にとって、水は無くてはならない最重要の物質といえる.
 ところで阪神淡路大震災・平成6年の大渇水・猛暑時に水不足した折りには、社会生活が混乱となったことはつい最近のことの出来事である.この時の状況は文明社会に馴染んだ我々にとっては、飲み水がない.汗くさい身体なのに風呂(シャワー)に入れない.トイレには流し水がない.また生活水が思うように扱えない.現在の精神的・物質的に豊かな生活に染まった我々には、このような状況下にいたると耐え難いことになるのである.
 さて、その有り難く頼もしい水が、地球上には13億8千万立方メートルという膨大な量が存在しているのである.水は43億年前からすでに存在していたと思われている.その内の97.5%は海水(表1)で、その水には塩分がふくまれているから、そのまま生活水というわけにはいかない.あと1.75%は南極の氷、あるいは高い山の氷河である.すると私たちが生活水に使用できる水は、地球上の水のうちの0.75%に過ぎないのである.しかも、その0.75%のうちの97%が地下水で、残りの3%弱が表流水である.すなわち川の水と湖沼の水というわけである.全体水の比率から見れば、なんと微々たる水量であるかが分かる.
(表1)        地球上の水の量と滞留時間
  貯留量(km3割合(%)循環の速さ(km3/年)平均滞留時間
海 洋1,349,929,00097.5418,0003,200年
氷 雪24,230,0001.752,5009,600年
地下水10,100,0000.7312,000830年
土壌水25,0000.001876,0000.3年
湖沼水219,0000.016 数年〜数十年
河川水1,200 35,00013日
水蒸気13,000 483,00010日
総 計 1,384,517,000100  
 ところで地球上における水の世界を水圏といい水の存在量である.この水は太陽の放射エネルギーを動力源として、海洋・大陸・大気の間を絶えず循環しながら地球の自然を作り上げてきた.この一回りして元に帰り、それを繰り返すことを水循環(図1:水収支)という.


 (注釈:上記の水収支の概要図1に示す地球規模の循環は降水、蒸発、水蒸気の輸送という経路で行われている.大気中の水蒸気量が一定と考えると、年間の降水量と蒸発量は等しくなるはずである.しかし陸上では降水量の方が多く、海洋では蒸発量の方が多くなっている.その差は約40×103km3/年となり、これらは大気中で海域から水蒸気として陸域へ移動し、同量の水が陸上から河川・地下水などを通して海へ運ばれる.水収支は一般には次の平衡感覚が成立する.P=D+E+G+M、P:降水量、D:流出量、E:蒸発量G:地下水補給量、M:土湿増加量、水収支を行う期間により、また地域特性に応じて、無視できる項もある)
 ある試算値では、海水の水が一回完全に入れ替わるには3200年(表1)、また氷河、氷山は9600年、湖沼の水は数年?数十年、土壌中の水分は2〜15週間、河川水が13日程度、大気中の水蒸気は10〜12日、地下水は650〜830年となっている.
 ところで水の汚れ度は今から何億年前かの水と、100年前の水の汚れは、そう変わりはないと思っている.しかし、イギリスから始まる産業革命以降からは、徐々に地球の降水(水)は石炭、排気ガスによる酸性雨となり、また工業用水・放置廃棄物が汚染水(地下水の水の質の悪さ)の元となる、ゴミ消却によるダイオキシンが、雨水と共に土壌水を汚すことは進行形である.全世界が日本の精神訓「事が起こってから行動する」を見習っているようである.「水は異なもの味な物」の水は、太陽が消滅することなく、今のような状態である限り、数十億年と関わることになるのである、そして、人間社会も続くのであるから、最も貴重なものとして人生末永くよいおつき合いを、させて頂くにあたり個々が水の有り難みと、共有水として大切さを再考すべきである.

「水利権・水争い」
 平成6年には春先から全国的な猛暑・少雨により、中部、四国地方から渇水に見舞われ、その後関東、東海、中国地方を中心に歴史的な水不足、すなわち大渇水状況になり、近畿にあっても琵琶湖では水位はマイナス123cmと観測史上最低を記録した.この異常渇水時において「水利権」の問題が徳島県と香川県の間で、クローズアップされている様子が四国新聞に載っていたのである.そのこともあって目新しい言葉の水利権に興味を抱いていたことを、ここに御紹介もうし上げる次第であります.
 さて、水利権は公の水特定の団体や地球住民が独占、排他的に利用する権利のことで、利害に伴う感が複雑に絡み合い、各地の「水争い」の種にもなっている厄介な問題である.そもそも水争いとは、農民同志が水利権を巡って争うことが本来のものであった.
ところで、証文水ということばがある.池の水が一定限度を越えて少なくなった場合、ある特定地域の人たちのみに、優先的に水を配分するとの証文に裏打ちされた水をいうのであるが、空海ゆかりの満濃池にも360年前の寛永から続くこの制度がある.特定の地域というのは、池がかって最も小さかったその頃、水量を増やされる以前から池の水を使っていた地域のことである.そもそも水利権の起源は「稲作に水を利用し初めた頃から」と古く、暮らしのベースの一つとして大切に保護されてきたのである.また、その歴史の発生時期を定めるのは難しく、自分の水は「目で見渡す範囲にみずがある」もの、としか言いようがないようである.
水田稲作農業が中心の日本では、古くから農業水利権が慣習法としてものが生じて形を現したのである.確たる歴史としては、徳川藩政時代には各地に慣行水利権(とは、日本の古い農業用水のように伝統的に継承された水利用で、旧河川法制定以前から存在するものである)が存在し確立していたことは知られている.遡れば農業において水を使用する人間の社会関係があった時代までに行き着くことになる.
ところで時代に即した水利権とする方法はないものかというと、慣行水利権といえども絶対的な権利ではなく、社会の形態や暮らし方の変化、その他公益上必要が生じた場合には、水利権相互間の調整を図る必要がある.特に平成6年の大渇水時の措置については、立法によって特別の効果的手続きを創設すべきであると提案されている.この時の異常渇水では、吉野川の上流にある早明浦ダムの利水容量がゼロになる緊急事態を受け、発電専用約900万トンの使い道を検討する吉野川水系利用連絡協議会では、徳島県は改めて吉野川の水についての水利権を主張したのである.この発電用水の水利権者は電源開発公団四国支社であり、水争い?の当事者は徳島でも香川でもないのである.
7月初め早明浦ダムの渇水ピンチを見越した四国地方建設局が「市民生活を守る上で、非常手段の措置として生活水(農業・工業用水でもない)に充てたい」と電源開発に確保を要請していた水である.協議会において四国地建は、通常この時期に両県に流れる水道水の分量を一定の比率でカットする基本方針を提案したのである.
ところが徳島側は「県内の意見がまとまっていない」として、受け入れず会議は物別れに終わったのである.水利権が微妙なこの水への徳島県の思いは「徳島のものかどうかは別にして、水力タービンを回した後の電源開発の水は、吉野川の水なんです」微妙な時期の微妙な発言である.
「法的にどうあれ、徳島県民は徳島の水と思っているんです」との生命が感じ取れる談話があった.その結果は香川用水の送水量を通常の毎秒14.0トンから3.5トンに、徳島用水を56.9トンから44.4トンにすることが決定したのである.なぜこの差が生まれたのか、それは水の既得権(すでに得ている権利)に原因がある.ダムが完成する前は吉野川での徳島県の既得用水は毎秒43トン、むろん香川県はゼロである.この件を遡れば「誰かが水を使い始めたとき」すなわち農業に水を使用する人間同志の暗黙の了解が社会関係にあった時代まで行き着くことになる.そして慣行水利権(江戸時代後半から逐次社会慣行として水利秩序が成立し、おもに灌漑用水の利用に承認された権利)の根拠とは慣習法である.長い歴史の間に豪雨による洪水の傷みに耐え、傷んだ河川敷地の堤防や河原の改修工事をも行ったのである.それを横取り?されるようなことは、徳島にとって納得いかないことになる.これを慣習法上の物権として扱われるかなり強い権利である.そのことの社会的影響や問題点としては内容が不明確であることが多く、地方によってまちまちである.このことは水利用方式の高度化に適合させることが困難であるし、都市近郊において農業利水の必要性が減り、都市利水の必要性の方が高くなっても変更することが難しいことが挙げられている.このように身近な問題として知ったことにより滋賀県・京都・大阪が利用する水ガメ、琵琶湖の利水権が興味しんしんである.平成の今も続いている慣行は不合理と思う人がいるかもしれないが、慣習法の性質上むしろ当然であり、それを上からの力で一方的に変更することは出来ないのである.憲法では財産権不可侵の原則をうたっている.現代の水論では工業用水や水道用の上水などもシェアを確保しなくてはならないので、水争いの規模も大きくなる.たとえば、農業用水では、上流の水田から下流の水田へと繰り返し循環利用される.このような水利用体系を持つ農業用水は、我が国の水文条件下で灌漑水を安定確保するには水田面積の約12倍の集水域を必要とする.わが国の水田面積の総計は300万fであるから、必要な集水面積は3600万f、つまり全国土面積に相当する.わが国の農業用水量は570億m/年で、これを単位用水量で表すと19000m/f・年になる.このうち水稲生育に消費される蒸発散量は5000m/f・年だけであるから、その差引き水量14000m/f・年は無駄に使用されている、という議論がされてきた.
簡単であるが式で表すと
         570億m/年÷19000m/f・年=300万f
         300万f×12=3600万f
        19000m/f・年−5000m/f・年=14000m/f・年
                                  となる.
水需要の増大に伴い、農業水利権の割譲が工業・都市側から要求され、現代の水論(水争い)となっている.
話しはもどりますが、徳島県は長い歴史の間において、香川県は満濃池の水を独り占めで使用していたではないか、それを横目で眺めて、吉野川の洪水の傷みに耐えてきた、河川の改修では沢山のお金を使った.それを横から使わせて下さい「はい、お使い下さい」とは言えない.このような歴史背景から、徳島にすれば、もともと使っていた水量は、仮に県内の水事情に余裕があったとしても譲れないというのが基本的な立場である.だが、これに出席者から異議があった.「異常事態であり、過去の慣例にとらわれるべきでない、同じダムから水を受けているものが互いに水を分かち合う新しいルールを考えてはどうか」の再検討すべきという指摘である.対する徳島側の説明は「吉野川下流域で農作物に塩害などの被害が出始めている、さらに水量を削減すれば被害が拡大する恐れもあるので譲れない」また、「香川には、ため池が沢山あり農業用水が確保されているが、徳島には吉野川しかない」とも主張した.徳島県民の感情からすれば「吉野川は徳島のもの」との意識は当然強いものがある.吉野川と共に生活する中で、多大な恩恵を受ける一方、洪水などによる被害も被ってきたからである、「香川は吉野川の恩恵だけを受け被害は全く受けない」香川用水分水時からこうした徳島側の意識は歴史的に根強いものがある.協議会では、このような県民感情を背景に水利権を主張する徳島県に対し、水をもらう「弱い立場」の香川県はひたすら窮状を訴えるしかないようである.結局、香川県知事が徳島県に水乞いに出向く、という政治的な方法を経て、徳島県は発電用水を両県に均等に配分する方針を固めたのである.
一応緊急事態の中で一定の「互助の精神」は発揮されたわけであるが、社会の仕組みや、生活のあり方が激変しているのに、水利権だけが変わらなくて良いのかといった在り方を考え直そうという動き(水論)はあるが、年月が経るにしたがってアクテイブさが、薄れていくように思われる.そのような事もあって、この水事情に関する協定の見直しを国を挙げた問題として、国会が学際的な見識者らの協議委員会を設置し、各方面が顔が立つような結論の場を設けて、「水は誰のものでもない」万国共有の生命水だと宣言すれば笑われるかな?.

 文献:
     平成6年7月22日の四国新聞
     榧根 勇:水文学、p.272、大明堂、1980.
     J. W. M. La Riviere:危機に瀕する水資源.サイエンス、19、52-60、1989.
     不破 敬一郎編著:地球環境ハンドブック、朝倉書店


海は広くして 広大無辺

    空は青くして 悠々無量

        海のように 空のように

          私はなりたい

TOP

dptech@adm99.dpri.kyoto-u.ac.jp

技術室通信に戻る