目 次
総合技術部技術長会議の報告
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雑記3
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1939年3月1日の旧陸軍施設・枚方市禁野火薬庫の大爆発について
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総合技術部技術長会議の報告
企画情報班長 北川 吉男
日時:1999年12月1日(水)10時〜12時
場所:事務局会議室
出席者:13名(内人事課から3名)
議題:第23回技術職員研修について
1)「技術職員による講義」の講師について
2)専門分野別の実習講義・施設実習について
3)その他
1) 応募は5名あったが技術専門官を除く4名の技術専門職員から2名を決定した。
次回(第24回)には今回の2名を繰越さず再応募する。
2) 基本的には前回(第22回)の所にお願いするが、都合の悪いところもある。
候補場所として5カ所あがったが事務局で細部を詰めていくことになった。
3) 今年8月の技術専門官研修の京大割り当ては2名で、工学部と総人から参加した旨(人事課から)報告があった。
次回の技術専門職員研修の当番校は大阪大学、次々回は神戸大学の予定。
5巡目の技術職員研修は平成13年2月で終了するが、6巡目からの研修形態については今後考えて行きたい旨人事課から協力要請があった。
次回の同会議は2月23日(水)
次回(1月中旬)は、吉田・細両技官にお願いします。
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雑記3
中村行雄
10月30日の朝 急に思い出したように,宇治十帖スタンプラリーに参加しようと話がまとまり,家族で出かけることになった。午前8時40分に家を出発,宇治橋へ徒歩で約30分の道のりをたどり,出発点の京阪宇治駅(宇治橋の東)へ集合した。参加者はご年輩の方や小学生といった各年齢層の方々で,皆思い思いの服装で,リュックサックを背負った人,手提げをもった人,手ぶらの人,それぞれでスタンプ帳を各自携えて,9時30分の出発を待っておられた。私たちは,基本コースと健脚コースのどちらにしょうかと悩んだ末,年甲斐もなく健脚コースに挑戦しようということになった。出発時間になって,まず1)番のあづまやでスタンプをいただき,2)番のしいがもとに向かった,そこから3)番のてならい,4)番のかげろうへ,11)番の橋寺(放生院)へこのあたりは楽々と歩けた。次は7)番のうきふね,12)番のえしんいん,13)番のこうしょうじ6)番のさわらび,そこから14)番の宇治上神社,5)番のあげまきへこのあたりまでは,すいすいと比較的楽にスタンプを頂戴した。さてここからが大変,大吉山へ向かって進むのであるが,山道をえいこらと登らねばならない。吐く息も荒々しく,子どもの頃はこんな山くらいと思っていたものが,この年になって我ながら情けなくも,肩で息をしながら歩いた。15)番目の大吉山万葉歌碑につき,タバコを一服,風景を見る余裕ができた。そこからは東海自然歩道を志津川郷へ,淡々と歩いた。そして,16)番目の神女神社へ,志津川沿いに宇治川へ向かって歩き続けた。
宇治川について白虹橋から天ヶ瀬ダムへさてこのコースは自動車でしか上下しておらず,徒歩で登るのは久しぶりのことであって,その登りは肩で息をするほど手こずった。17)番の天ヶ瀬ダムへ着き,そこから折り返し,18)番の天ヶ瀬つり橋へ,そこから19)番の白山神社へ一山越えて歩き続けた。白山神社から宇治川へ向かって一路下った。8)のやどりぎを経て20)番の県神社,9)番の橋姫へ歩いた。10)番目の夢浮橋,最後の平等院が21)番目であった。そしてゴールの中之島(塔の島)へついた。景品にバッジをいただき約2時間30分の間のスタンプラリーを無事終えることができた。
日頃の運動不足から足腰のスタミナ切れを痛感する一日であった。
おわり
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1939年3月1日の旧陸軍施設・枚方市禁野火薬庫の大爆発について
浅田 照行
1999年1月末、S新聞社の問合せで表題の事件を知る事となった。S新聞で特集するため爆発の際の震度等を記した文書が無いかとのこと、Wiechertの記録に爆発の波形が(別紙―1)あったものの、他に何も見つからず、その旨S社に返事する。……但し、伊藤勝さんによると新聞の切り抜きをまとめた冊子があったよう、何かメモが入っている可能性もあるが、現在もまだ見つからない。…… その後、昨年枚方市主催の戦後50周年記念事業で写真展が開催されており、その際のパンフと事件翌日の新聞記事を入手したこともあって今回取り上げる事とした。
別紙1 Wiechert(EW)の記録火薬庫爆発の記録
● 禁野火薬庫の爆発
戦前、枚方は「兵器製造のまち」とよばれていた。旧陸軍施設(砲弾・火薬製造所)が3ヶ所あり、その関係者が全人口の60%をしめていた。
昭和14年3月1日、禁野(現在の中宮第1・第2団地あたり)にあった火薬庫が大爆発を起こした。
午後2時45分に突然倉庫から出火。弾薬に引火し「ドカーン、ドカーン」 と、天地をゆるがす大爆発を午後7時まで29回にわたって繰り返した。爆発音は京阪一帯に響き渡り、真っ赤になった弾薬の破片が半径2Kmの地域に飛び散った。
この爆発で、死者94名、負傷者602名、家屋の全半壊821戸、被災所帯4425世帯という大きな被害をだした。当時の枚方町の町民や、徴用で連れてこられた朝鮮・韓国の人たちにとって、火薬庫の爆発は忘れることのできない悲惨な体験となった。別紙−2に写真。
(記念事業パンフより引用)●
別紙2 記念事業写真展パンフより(朝日新聞提供)
大阪朝日新聞の、この事件を報じた紙面のコピーを別紙―3に示したが、見出し以外は読め無いと思われるので、"はたして何人の人が読んでくれるのか?"と、何度も思いつつルーペ片手に本文を以下に書き写したので、一読される事を願う。
◇ 中部防衛司令部一日午後五時十分発表=本三月一日午後二時四十分頃枚方陸軍倉庫より発火し目下延焼中にて軍隊、警察、消防隊などはすでに現地に到着し消火、警備、救護に努めつつあり、多少の死傷ある見込み、損害などは目下調査中
中部防衛司令部一日午後八時十五分発表=枚方倉庫の火災は午後五時ごろより暫時下火となり次第に鎮静しつつあり発火とともに関係官衛、憲兵隊主力、第四師団より歩兵一ケ大隊、工兵一ケ中隊、救護班四ケ班、を急派し消火、警備、救護などに努むるとともに第十六師団より工兵一中隊、救護班二ケ班を増援せられたり、大阪府より警察官一千名、消防百七十名、救護班七十班を、また京都より警察官、消防員を増援せられ大阪、京都府、市その他より逸早く衛生救護施設を講ぜら万全の手段をとられありて相当の損害を予想せられるも人心すでに安定しありて憂慮すべきものなし
[一日午後十一時三十分大阪府警察部発表](一)焼失家屋は詳細不明なるもおよそ五、六百戸の見込み(一)負傷者は役二百名ぐらいなるも調査中(一)避難者は京都府下へ約八百名、大阪府下へ約五千名あるもいずれも平穏に収容せり(一)知事は午後八時三十分出発、阪大病院へ負傷者を見舞ひ引続き現地にいたり警戒救護員を督励しつつあり
一日午後二時四十分大阪北河内郡枚方町禁野、中宮両大字に跨る枚方陸軍倉庫,禁野火薬庫西方隅から出火、騒然天地を震わす物凄い大爆音とともに爆発し黒煙濛々天に沖し爆音は枚方を中心に京阪一帯に響きわたつた附近住民は府道枚方長尾線から西へ淀川堤防方面へ続々と避難,同方面の通信機関も全く杜絶した、出火とともに大阪府警察部では府下全署員を非常召集し現場に急行せしめ、さらに第四・第十六両師団よりは歩工兵各一ケ中隊ならびに救護班、憲兵隊主力など現場に急行、一方大阪市内の各病院からも多数の救護班を現場に急行せしめて救護につとめ枚方署を救護本部として死傷者の応急手当をするとともに?バスなどによって続々守口町女子医専病院始め大阪市内の各病院に送り枚方・蹉?両小学校その他内務省淀川維持事務所、淀川左岸水防組合などでは避難者多数を収容するなど災厄時にあって一糸乱れぬ防護の堅き統制ぶりを遺憾なく発揮した、苞山田、殿山、枚方各方面は夜に入って電灯も消え暗黒に突き落とされたが火勢は同八時ごろ漸次衰へ、しかしなお焔焔と立ち登る紅蓮の焔は天に沖し濛濛たる黒煙が全枚方町を包み焔硝の悪臭にむせかへるやうな付近は夜に入って停電のため町全体は闇の中に猛焔がはえて一入凄烈を極めている、現場付近大字禁野の民家(約五十戸)はほとんど全焼、同大字渚、中宮、天の川部落の民家にも延焼して全焼家屋は約五百戸に上る見込みである
府立中宮病院収容患者五百名と職員百名は直ちに裏山の山越村の天理教会に避難したが 避難者は京阪国道を大阪へ大阪へと蜿蜿と列をつくつて逃げているが、大體深更までに五千八百名がそれぞれ避難終了、各所で炊き出しを行い避難者の収容にあたつている
救護班は枚方署に本部をおき府、市、阪大、済生会、赤十字をはじめ来援した兵庫県、本社の救護班などが水防組合、内務省土木事務所、旅館かぎ屋の四ケ所で負傷者の手当を加えている
二日午前一時にいたり禁野、磯島、渚、田ノ口方面の火災は大體鎮火した、なお中宮方面は水不足のため防火活動十分ならず、高槻工兵隊では破壊防火作業によってこれを食い止めた
なお火薬庫近くの大阪美術学校は校舎の屋根をぶちぬかれたのみで災禍を免れた
(ただし文中?は読み取れなかった文字である) ◇
別紙3 1939年3月2日 大阪朝日新聞
最後に,この事件とは関係ないのですが、当時のスクラップ ブック(地震に関する)に、"地震を戦争に利用する研究"また、"火山を爆撃して爆発か地震を誘引する"と、いう珍記事があったので、付録として別紙―4に添付しておく。
1999.12.17
別紙4 珍記事2題
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